風景雑話(第2回)
河内飛鳥の旅―鬼瓦
小林澄夫
泥ではじまり、泥で終わる旅。
河内飛鳥―当麻寺。
泥を焼いた瓦の鬼をみるためにふたたび河内飛鳥の芹生谷に出かけた。富田林からBusに乗り、芹生谷の上の千早赤坂村の水分まで乗る。水分。地元の人は、すいぶんといい、水分神社がある。いわゆる水分神社とは、みくまりの神を祭っているのであろう。名古屋で曇っていた空は河内でも曇っていて、ときたま雲の切れ間から薄日が差すていどだった。
鬼瓦の乗っている瓦葺の民家は無人で、雨戸も玄関も閉ざされていた。その痛みようや軒場のようすで、もうながいこと誰れもすんでいないように思われた。母屋から分家した次男か三男がとりあえず棲むためといった安普請の切妻の平家である。切妻の屋根に増築したのか、いちだん低くく主屋根の三分の一くらいの屋根がつき、それぞれの棟の端に鬼瓦がついている。つけたした一段低い屋根の崩れかかって空の方をむいている鬼瓦が、どのような鬼師の手になるものかなかなかに味のあるいい顔をしているのである。鬼というものがどのようなものであるかみたことがないので知らないが、鬼もまた瓦師とともに大陸から渡って来たのであろう。
龍が空想の動物であると同じく、鬼もまた空想の生物であろうけれども、龍のように天子に聖別された形を持つことはなかったから、幸せにも様々の鬼瓦が寺の屋根から民家の瓦屋根の上にも繁殖したのであろう。権力者は、鬼よりもシャチの方をこのんだのだから、鬼は庶民の地方の守護神として、権力の加護のない民草を守ってくれたのである。鬼がもたらすであろう様々の災厄を鬼によって除くという考えは、天変地異にほんろうされ身を守もるすべもない庶民におおいに受け入れられた考えであろう。災いをもたらすもの、災いをもたらす力を持ったもの、非業の死をとげたもの、野をさまよう魂こそが災厄を祓う力を持つものであると考えるほかにどのような助けがあったろぅ。
庶民が屋根に瓦を葺けるようになったのは町屋では江戸も半ばをすぎて、田舎では明治以降のことであるけれども、われらがすまいに鬼がいるということ、鬼と一緒にすんでいるということは、ただせいけつで明るいというだけの現代の住宅よりも精神衛生上、魂の教育上、なんぼすぐれていることではなかろうか。われらの内なる鬼を屋根をみあげさえすれば対象化することが出来たのだから。屋根の上で怒りつづける鬼瓦の哀しみがあればこそわれわれの怒もなぐさめられるというもの。
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