近代の造園資材としての擬木
造園家 須長一繁
1.街なみの中の擬木
街を歩く目的は、人によりさまざまである。
私の場合は、大正から昭和の初期につくられた街や、住宅、門まわり、生垣、庭などを見るのを楽しみとも、目的ともしている。近代といわれるその時代は、門まわりの意匠も現在と異なり、既製品の少ない時代ということもあって、門柱や門扉、塀などもそれぞれに個性的で楽しい。
そうした街歩きの中で見かけたものの一つに擬木でつくられた門柱がある。擬木は、樹木の肌や枝の切り跡、樹皮の模様などを真似て、コンクリートやモルタル等でつくられたもので、現在でも公園などで木柵の代わりとして使われているものである。
丸太を立てて門柱としたものは、古くから門構えの一種として広く使われており、それを擬木で木の門柱の代わりにしたものも、近代につくられた住宅地では時折見かけることができる。ところが、同じ擬木でもよくある丸太ではなく、あたかも巨大な丸太を割った状態のものをわざわざつくって門柱としたものがあったのである。(以下画像をクリックすると大きくなります)
木の肌あい、切られた枝の跡、樹皮の割れたところなど、きわめて写実的で、遠目には本物と見紛うばかりである。さらに興味をかき立てられたのは門柱だけではなく、フェンスも擬木でつくられていたことであった。玉・石積みの低い塀の上に、擬木で枠取りをし、枠の内側は、これは樹皮の表情を見せないモルタルで斜め格子を組んでいる。これは木材を割って削った細い角材を格子に組んだという見立てであって、木の皮をあえて表現しなかったものと見ることができる。
擬木という資材については、正直にいえば私はこれまで庭や門柱などに使うことを否定し、馬鹿にしていた。しかし、この事例を見かけてからは、やや評価を変えなければならないと思いはじめた。そうして擬木はいったいいつ頃から使われはじめたのか、そしてその技法はどのように発達してきたのかということに興味を覚えたのである。
2.日本で最初の擬木
日本で最も古い擬木といわれているものは、現在でも東京にある新宿御苑で見ることができる。新宿御苑の南東の隅、西洋庭園(イギリス風景式庭園)の下の池の池尻で、池の余水が流れ出る細流に掛かっている橋の欄干がそれである。
かたわらには説明板が立ち、明治38年(1905年)に擬木の欄干をフランスから購入し、それを組み立てるために3人のフランス人がついてきて、現場で組み立てた。と記されている。
欄干は長さ3mほど、高さ60㎝内外の小さなもので、モルタル擬木と思われるが、細流の護岸から橋の側面にかけて組まれたクロボクの上に乗せられている。欄干の太い親柱からは、根とも枝とも見えるものが橋を縁どるように伸び、さらに親柱からの枝が絡まるような形をなして欄干を構成している。親柱の枯れた根株の表現も、枝の裂け折れた状態もきわめて写実的で、造形としても秀れた表現といえるだろう。
しかし、説明に記されていたように、この小さな橋の欄干の組み立てのためだけに、3人のフランス人の技術者を招いたのは、いかに日本で初めてとはいっても大げさな気がするが、実はこの時新宿御苑は大改造工事が行われていたのである。
当時宮内省の所管であり新宿植物御苑といわれていた苑内の大改造は、植物御苑係長兼式部官を務めていた福羽逸人氏が、パリで開催された万国博覧会に出張した際に、ベルサイユ園芸学校の造園科教授アンリー・マルチネーに相談し、基本計画を依頼したものが原案となって実施されたもので、明治35年(1902年)から5ヵ年計画で工事が行われていた。新宿植物御園は、この大改造によってイギリス風景式庭園、フランス庭園、そして日本庭園からなる現在の姿にほぼ形づくられたといわれている。
擬木の欄干が設置されたのは、改造工事がはじまって4年目の明治38年であり、この工事の一環として擬木の欄干も設けられたことがわかる。
しかし推測ではあるが、イギリス風景式庭園にしろ、フランス式庭園にしろ大規模で本格的な日本で初めてといってもよい庭園の工事に、フランス人技術者たちが擬木の欄干の組み立てだけに招かれたとは思えない。西洋庭園のいずれかの施工にも、彼らはかかわったのではないだろうか。今となってはそれを知る術はないとはいえ、日本の擬木はフランスの技術によりはじまったことは確かなことであり、それに伴う西洋庭園における左官技術の一部もまたフランスから伝わった可能性も否定できない。
3.公園の擬木・擬岩と名人
有栖川記念公園は、東京都港区麻布にある公園である。昭和9年(1934年)に、旧有栖川宮家の敷地の一部を、祭祀を継承した高松宮殿下から東京市に賜与され公園となったもので、敷地は起伏に富み、渓流や池を備え、大木が茂る庭園的趣の濃い公園となっている。
東京市では賜与された敷地を早速公園として公開するための工事を行ったが、その中で擬木・擬岩が使われていたことを前島康彦氏が記している。「流れの上の滝のあたりは蛭田氏の持ち場であって、江戸時代以来の南部藩邸の庭石(景石)が若干残存していたのを掘り起こして用いたが、大部分は伊豆真鶴の石を使い、一部は擬岩で現場打ちであったようだ。当時、東京には松村重(じゅう)という擬岩・擬木づくりの名人がおり、市公園課のお出入りであったから、たぶんこの人の丹念な仕事であったろう。」(『有栖川宮記念公園』東京公園文庫)と書いている。
また擬木は「設計では六ヶ所の擬木の欄干つきの橋と沢飛びがあるが、これらのうち中央のコンクリート製の太鼓橋付近の石組は杉本氏の持場で作意豪壮を持って評判を増し、そして広場と梅林を結ぶ擬木の猿橋付近と池沼の護岩や石組修景は成家氏の施工であった。」(同書)と、橋の欄干に使われていたことがわかる。
これらの様子から、昭和9年ごろには擬木や擬岩はごく普通に使われていたことがわかるとともに、当時名のある庭師が手がける石組の中に擬岩も組み込まれていて、ほとんど擬岩あることに気がつかないくらいの仕事をする名人が現れていたことも知られるのである。
前島氏の文章の中で、名人と称されていた松村重氏については、上原敬ニ氏もまた著書の中でふれている。大正初期に松村氏がキューバでフランス風の擬木の工法を取得して帰り、当時大阪市公園課長であった椎原兵市氏に話したが関心を持たなかったため、東京市公園課長の井下清氏に話を持っていったところ、興味を持って日比谷公園でつくろうとしたがうまくいかなかったこと。その後「井下氏は大正14年フランスに渡り、パリに赴き、同市の公園ビュウッテ・ショーモンに至りその現実をつぶさに調べてきた。この公園はもと石切場で擬木・擬石が数多く使われているので著名であるもの、(中略)同氏はその知識をもって帰朝ののち、工法に改善を行い、製品を大量に公園で使用したのである。」(『岩石・庭石・石組方法』)というように、擬木が製品化されたのは、松村氏が満ち帰った製法に加えて、井下氏がフランスから持ち帰った工法についての情報によって改善したことが記されている。
このような擬木についての歴史をたどると、フランスの擬木の製作技術が日本の擬木の元であり、その製品化は大正の末から昭和の初めに行われたことになる。そして擬木のみならず擬岩についても、松村氏のように本物と見間違うほどの製作技術を持ち名人と称される技術者が生まれていた。ちなみに松村氏は昭和39年に亡くなったという。
4.庭園に使われた擬木
庭園での擬木の早い時期の使用例としては、菅見ではあるが、椎原氏が昭和3年(1928年)に著した『庭園の設計と其実例』(造園叢書)の中で紹介している事例であろう。昭和3年の出版ということから見ても、実際の庭園の設計及施工は、遅くとも大正末から昭和1~2年ということになるだろう。
実例としての図面の説明の中で、花壇の縁石がわりに擬木を使用しているもので、「縁石人造自然木、径3寸5分、長1尺ものを地下5寸埋込みのこと。」とある他、別の事例では「池縁は渓流、砂利浜其他要所に装石を行い、其他は人造模擬木を使った。」と書いている。装石という言葉はあまり見かけない表現ではあるが、要所の護岸は石組または石を据えた、とのことであろうし、その他の護岸に使用した人造模擬木は、松丸太の乱杭の代わりに擬木を使ったことを表現していると思われる。
さらに他の実例の中では、「展望台は松林の下に置いたので、腐朽の恐れがあるから全部コンクリート製の模擬木材を使用した。」と書いていて、すでにこの時期には既製品を使用しているような印象を受ける。
このように、花壇の縁取りや池の護岸への利用や、展望台(四阿(あずまや)か)のように、庭園建築物への使用例など、違和感なく、幅広く利用されている状況を見ると、あるいは擬木が製品化されたのは、上原氏の記述よりも早い時期に行われた可能性も否定できない。
それは庭園では、公園以上に趣味性にこだわる施主がいて、腐朽しないという合理性だけではなく、見た目にも本物と違わないほどの仕上がりが要求されるはずであるからで、製品化とほとんど同時に庭園にも使用されるほどの仕上がりを持った擬木であったかどうかは、まだ断定はできないように思われるのである。
また、擬木の名称が「人造自然木」「人造模擬木」そして「模擬木材」とそれぞれに異なっているのはどうしてなのだろうか。逆に「擬木」という名称で統一されたのは、いつからなのか、ここでもなお不明な点がある。そして大正の初期の頃、キューバから帰国した松村氏の擬木の話に関心を示さなかった椎原氏が、大正末から昭和の初めにかけての自らの庭園設計の中で、ごく当たり前のように擬木を使っているのも、そのきっかけは何であったのか知りたいと思う。
5.擬木についてお願い
街歩きの中で見かけた擬木も、日本における歴史をたどるとほぼ100年というところのようである。そして造園においては現代でも評価はさまざまであり、特に庭園においては代用品として見られることが多い。擬木が代用品を越えて独自の価値観を今だに生み出せないといえるのかも知れない。
しかし、これまでに見たように近代に導入され、公園や庭園に使用されてきた新しい庭園資材であることも、また確かなことである。
今回投稿させていただくことにより、造園側からの視点のみならず、実際に製作にたずさわった左官職の方々から、さまざまなお話や事例、資料等についてご教示いただき、擬木についての疑問を少しでも解明できればと心より願っております。どうぞよろしくお願いいたします。
写真説明(上から掲載順に)
1.一搬的名擬木の丸太の門柱
2.丸太を割ったような造形の門柱と擬木のフェンス
3.門柱の細部
4.フェンスの細部
5.日本最初の欄干全景
6.欄干を流れ側から見る
7.欄干の細部
8.説明版の文章