須長氏投稿1

左官的塾 web

塗り壁の文化を伝える

サワラ生垣.jpgサワラ生垣サザンカ生垣.jpgサザンカ生垣

| HOME | 投稿一覧 | 須長氏投稿1 Copy |

生垣のある風景

造園家 須長一繁


静かな落ち着いたたたずまいの街は、家々は小さいながらも庭があり、モッコクやキンモクセイの緑の間に、モミジの紅葉やハクモクレンの黄葉が混じった晩秋の色に染められている。街路に沿ってツゲやサワラの生垣が続くなかで、淡紅色の花を咲かせはじめているのはサザンカの生垣である。紅葉が散り、冬の気配が強まると、街には急に色彩がとぼしくなるが、そのなかで咲くサザンカは季節の華やぎを添えてくれるようだ。「山茶花、山茶花咲いた道…」胸の中に懐かしいメロディーと詞が浮かぶ。
懐かしい生垣のある風景である。しかし、そんな街の姿はもはや面影の中にしかないのかもしれない。今では色とりどりの住宅が建ち並び、生垣の替わりに街路沿いには色鮮やかな車が家ごとに駐められている、そんな風景があたりまえになってしまったようだ。

街は姿を変えていく。今懐かしく思う街なみも、実は大正から昭和初期にかけて各地につくられた郊外住宅の街なみが原型といってもよいだろう。洋風の文化住宅が建ち、生垣が続く街なみは、当時の新しい郊外住宅地特有の風景であったのである。
東京でいえば、大田、目黒、渋谷、世田谷、中野、杉並の各区は郊外であり、渋谷、新宿、池袋という現在の副都心はすべて郊外電車の乗換駅であった時代である。東京の旧市街ははるかに狭い範囲であった。旧市街の家の外囲いの多くは板塀や竹垣で、お屋敷町ではレンガ塀、石塀、コンクリ−ト塀であり、生垣はあまり見ることはなかった。

江戸時代でも生垣は江戸市中では少なく、根岸や向島などの別荘や寮、あるいは近郊の農家で使われていたようであり、それは明治になっても変わってはいない。そうしたことを考えてみれば生垣のある風景は大正から昭和初期という、近代に入ってから生まれた新しい住宅地の風景であり、それ以前とはまた異なる景色であったことが理解できるだろう。

街は姿を変えていく。かつてあった街なみをそのまま守ることは難しく、宅地の狭小化や車の存在によって、生垣は減少を余儀なくされ、樹種の変化も著しい。しかし、そうではあったとしても、生垣は街の中の貴重な緑として、これまで以上に必要とされている。今、これからの生垣のある新しい風景づくりが求められているのではないだろうか。


<上記写真>
(左) サワラ生垣
かつては多く利用された生垣材で古い住宅地ではよく見かけることがあるが、現在ではあまり使われなくなってしまった。

(右) サザンカ生垣
花が咲く生垣として好まれている。花は紅、淡紅、白などがある。近年チャドクガが発生することから敬遠され気味である。

投稿一覧へ戻るLinkIcon